中井久夫さんは、患者のアイデンティティが病気や病名になるのは悲劇的なことだと書いていました。(*)

私もそう思いますが、自分と自分の病気や障がいの関係性を、病気や障がいへの依存無しに受けとめるのはとても困難なことだと感じています。

 

アールブリュットは、平たくは美術の専門教育を受けていない人による表現ですが、私はその定義に長く疑問を持ってきました。

 

私は自身が自閉症スペクトラムの中にあり、介護職にも就いてきました。その経験から思うことは、日常的に周囲は当事者に「らしさ」と「ほどよさ」を多かれ少なかれ求め、病名や障がい名の中に整頓してしまうことがあるということでした。

 

デュビュッフェがアールブリュット「らしい」表現を求めたように、健常者や自分はインサイドだと思っている人からみた「らしさ」「ほどよさ」というものは根深く、支援と引き換えに無意識に表現者に押しつけている場合もあるのではないか、という思いがあります。

 

美術教育を受けなければ、アカデミックな技術を継承することはできないのだろうか。

教育を受けなかったが心からアカデミックな表現を偏愛する表現のできる人というのはどこに分類されるのだろう。

(技術とは何なのか。表現するための「訓練」とは何なのか?)

 

教育を受けたか受けてないかで表現者を分けられるとしたら、教育とはどれほどの権威で確実な価値観なんだろう。

 

ただどんな状況にあっても、自分の興味と欲求に関係ないものは無視し続けることができる表現者、どんな状況であっても自分に対して教育しようと向かってくる力を拒否し戦うことができる人、そういう人はどのような状況でも、横に大真面目な教育者が座っていても、自分のイメージに没頭することができるのではないか。

だけどそれと純粋さはイコールではないと思う。モチベーションの純粋であり方は評価されることではないし(もし仮に作者が純粋だった場合、その評価は作者を追いつめるだろう)、純粋かどうかなんてどうでもいいことだと思う。

 

(自分のイメージの中でしか、存在できない。)

 

 

私は高校、短大と美術教育を受ける場に在籍したけれど、受けてきた教育や学生時代から培われたコミュニティよりも、心の病と障がいを抱えながら人生と社会から自己が追放されていく危機感に耐えている日々の方が私の表現に与えている原動力と影響はとても大きいのは事実で、アールブリュットやアウトサイダーアートと呼ばれるものに、切実なシンパシーと反発を感じます。

 

患者がアイデンティティを病気や病名に求めることが不幸なことに似て、アールブリュットの作品においても作家の障がいや病気、人生(本来なら記号にできるはずもない)といった背景に興味が集まりがちなことは、表現者にとっても鑑賞者にとっても不幸だと思う。

でも鑑賞者が、エピソードやモチベーションについて言葉を安易に求めるのはアールブリュットに限られたことではないと思う。

 

(私は概ねごく普通に生活しています。努力する力と耐える力を持ちたいですし、おだやかに暮らしたいし、他者と自分への客観的な考察の習慣を心がけています。時々「自己分析するなんて」と言われますが、それが私の生活の術なのだと思います。)2014.5.9

 

  

 

  

(イメージは逃避先ではない イメージは険しい )

(現実とイメージの境界は入り組み険しい)

 

                             2017.12.21

 

 

 

 

(*)みすず 2007年7月号 中井久夫「臨床瑣談」より